2013年8月25日日曜日

小さな生きる喜びについて

生きる喜びには様々なものがあります。

貨幣経済が強まって、お金を生むものに価値がおかれることが強まりましたが、
本来は、お金を生み出すということにつながらずとも、充実すること、幸せなことは多くあるもの。

生きる喜びを感じられることが、
暮らしの中に、生きる中に、一つでも二つでもあることは、豊かなことです。

私は、小さい頃、エレクトーンを習いに行き、
二回ぐらいで「行きたくない!」と言って止めました。

鍵盤楽器は、性に合いませんでした。
もしかしたら、ルーティーン的な練習が性に合わなかったのかもしれません。
しかし、幼い自分にはそのように分析する力もなかなか持ち合わせていませんでした。

今、長じて、ピアノで短音ながら、好きなメロディーを追って奏でることを、
とても楽しく感じており、
時折時間を見つけては、弾いています。
ラピュタの「君を乗せて」のメロディーや。

まったく他人様の前で披露するようなレベルではありませんが、
自分の中では充実する時間です。
少しずつ間違えずに弾けるようになり、ちょっとずつ前進があり。

技術や才能には、お金に繋がることもあるでしょうが、
直接お金に繋がらなくても、心を満たす、成長の糧となる、
そのようなものはいろいろあるものです。

一個の人間は、豊かな複数の種を有するもの。
大事に色とりどりの花を育てたいものです。

2013年7月16日火曜日

「人間のタイプと尊厳」

人間にはタイプがあるもの。
そして、それはかなり根源的なもの。

しかし、全く変わらないかと言えば、変わることもある。

実に、この辺は興味深いところです。

ずっと私は、人間のタイプについて、研究・観察してきました。
色々な人間学を紐解きました。

自分も一個の人間であるように、
子どもも一個の人間です。
尊厳のある存在であり、
どうとでもなるものではありません。

尊厳を持つ者同士、
敬愛の中で育ち合っていきたいものです。

九九の楽しみ方(赤と青で数を楽しむ)

少し前に、九九を楽しく学ぶ方法を一つ、考えつきました。

赤と青の駒を用意して(磁石など)、
九九を視覚的に体験します。

ちょっと前に、動画をつくってみたので、まだ練り上がっていないものですが、
よろしければ。

たった二色の小丸で、数をかなり楽しく体験できます。
大人の方が「楽しい!」とおっしゃる算数メソッドです。

(2と4の段について)


(注:途中、「乗数」と言っているのは「平方数」の間違いです。訂正いたします。
乗数は、「かける方」の数、とのこと。
この辺、未だに不確かです。。(汗)
まあ、大勢に影響なし。)

(1,3,5の段について)


(足し算、引き算の基礎)

 ソロバンの5玉を、色で置き換えたような発想のメソッドです。
 どなたでも出来、色々遊ぶ中で発見・発展が見られます。

 これで遊ぶと、数に強い子が育つことでしょう。

 

困ったら、簡単なことから。

ずっと更新が止まっていました。
失礼しました。

今日は、「困ったとき」についてのお話しで。

私は少し、プログラミングをかじっているのですが、
何かで困ったら、「まずシンプルに」というのがだいたいの解決策です。

物事は、解決までの手順が複合的な場合が多いもので、
それを、シンプルに課題分離し、一つ片づけると、やる気も出て、前に進めるもの。

「困ったら、簡単なことから」

当たり前のことですが、やっぱり大事ですね。

2013年3月31日日曜日

「積み木」に関して。シュタイナーとフレーベルの違い。

現代の「積み木」は、概ね、フリードリヒ・フレーベルという幼稚園の創始者が基礎を作ったと言える。
もちろん、もっと昔から、木ぎれを積んで遊ぶことや、積み木的なものはあったに違いないが、体系的に開発し、そして、育児や教育に応用したのは、フレーベルだった。

「恩物」と日本では訳された、積み木や遊具は、フレーベルの後の時代の教育者ルドルフ・シュタイナーからすると、あまり子どもによろしくない遊具だと見えたようだ。

シュタイナーは、自然物を子どもには与えるべき、という考えが強い。
普通の木ぎれや石やその他様々な自然物。
直線的でなく、できるだけ自然なもの。

それらは、確かに、子どもに良い。

一方、シュタイナーはかなりフレーベルの積み木を良くないものだと見ていたのだが、
そこまでダメだろうか、と私は逆に疑問を感じる。

折衷案的だが、
どちらもあって良いのでは、と思う。

ただ、現代では、フレーベルが考えた積み木よりも、
更に発展した、プラスチックのブロックやその他人工的なものが溢れかえっている状況において、
シュタイナーが重視した、自然物に子どもが触れることの意味は、
以前よりも大きいかもしれない。

その上で、
フレーベル的な遊具も、別にあって良いと私は思う。

この記事は、シュタイナー教育に関心の無い方以外には、あまり意味がないかもしれない。
が、シュタイナーをかつて私は色々読み込み、
教育の実践にも適用する試みをし、
良さと難しさの両方を体感して、様々に思うことが生じた中で、
この、フレーベル批判と積み木批判について、思うところがずっとあるので、書き記してみた。

シュタイナーと付き合うのは、なかなか面白く、また困難の伴う作業だ。

私は、シュタイナーの難解な哲学より、
フレーベルの、周囲から「バカ爺さん」と呼ばれながらも、晩年に至っても幼児と遊び続けたシンプルさに、
親近感を覚えるものだ。

シュタイナーは、その名前と共に難解な哲学の学びと併せて教育運動が続けられ、
一方、フレーベルは、彼自身の名前は忘れられているも、「幼稚園(キンダーガルテン)」として、彼の子どもたちへの愛が形になった機関が、世界中に広がっていることは、
両者の違いが象徴的に表れているものだと、私には見える。

遊びの価値。少子化は、教育改革に繋げうる機会。

仕事や責任あるものごとに関して「遊びじゃないんだから」という言葉がある。
男女関係で「遊びだったのね」という言葉なども。

「遊び」という言葉は、かように、日本語では幾分ネガティブな響きがある。

本来遊びは、非常に豊かなものだ。
そして非常に大事なものでもある。
「教育の基礎は何か?」と私が問いかけられたならば、
「遊び」を重要な基礎であると答えざるを得ない。

遊びには「試行錯誤」の機会がある。
幼児と大人の間には、目一杯の愛情を傾ける機会となる。

「失敗してはいけない」ということを最初から意識すると、
物事はなかなか習得しにくい。
一定の試行錯誤期間があり、遊ぶように失敗を重ねたり、
実験する中で、だんだん修練が為されていく。

言葉や概念には、なんでも正と負の側面がある。
遊びに関しては、もっと正の側面が再評価されても良いと、特に子育てや教育の分野では思わずにはいられない。

私は、フレーベルという教育者に親近感を覚えるものであるが、
フレーベルは、「遊び」を非常に重要視した。

現代の教育では、幼児教育から、学校教育への移行が、
非常に大きなギャップがあり、子どもたちにとって、大きなハードルではないかと思う。
私自身も、小学校に上がったとき、それまでの保育園での遊びの環境から、
机に座り続ける世界になってしまったことに、大きな驚きと、戸惑いを覚えたことを記憶している。

自然溢れる幼児教育環境にいた子どもたちが、
学校教育に入ると、かなりの不適応を起こすケースをいくつか聞いたことがある。
さもありなん。

小学校にも、もっと遊びの要素が取り入れられれば良いのに、と常々思う。

そのためには、今の教室は人数が多すぎるのだろう。

少子化が進み、就職難の時代であるから大人の人手も余り、
学校の教室も余り始めている中で、
もっと少数のクラスを編成する基盤が、状況的にも整ってきていると考えられる。
日本の本当の教育改革は、これからが本番と思うのは私だけだろうか。

身体で覚えること4。わらべうたと5音階。

わらべうたは、とてもいい基礎だ。

音楽にしても、言葉にしても、文化体得にしても。

短いフレーズで、何度も何度も繰り返される。
単純な音階で。

やはり、物事の基礎を形成するには、シンプルなものが良い。

今の幼児教育の基礎を形成したF.フレーベルという人物は、
わらべ歌を非常に大事にした。
自身でも、多くのわらべ歌を創作し、「母と子の愛撫の歌」という冊子にまとめた。
幼児教育でわらべ歌が基本となっているのは、フレーベルの流れがある、ということもあるが、
元々、世界各国で、子育てにはわらべ歌がいつもそばにあったものだ。

そのわらべ歌も、あちこちでその継承がなされなくなり、消えつつあり、
文化消滅の危機が遍在化している。

日本のわらべ歌は、だいたい5音階で出来ている。
シュタイナーも、5音階(ペンタトニック)を重要視した。

世界のわらべ歌は、だいたい7音階のダイアトニックではなく、5音階のペンタトニックで出来ている。
幼児には、5音階のシンプルさが心地よいのだろう。

私も、大人になって、ペンタトニックの鉄琴や笛を子どもたちと奏でてみて、その心地よさをとても愛するようになった。
シュタイナーが5音階の良さを繰り返したのは、慧眼である。
ドレミファソラシドの音階は、やはり小さい子どもには難しい、というかそぐわない面がある。
全てダメ、とまでする必要も無いであろうが。

改めて、子育てや幼児教育には、そして学齢期の育ちにも、わらべ歌はもっと見直されてしかるべき、と思う。
そして、単に音感を身につける、というだけの視点ではなく、
歌を通して、身体を使い、スキンシップを幼児と重ね、単純なリズムの繰り返しの中に安定を得、言葉の奥にある文化や生活や現実の豊かさを体感していくことは、
人間形成の重要な基礎となる。

私自身、幼少期に十分なわらべ歌に触れることは出来なかったが、
わが子や、共に育った子どもたちと幾分取り戻すことが出来たのは、
自らの糧となったものだ。

身体で覚えるということ3。繰り返しと見えない身体。

R.シュタイナーは、「エーテル体」「アストラル体」という用語をよく使った。

現代科学では、物理的側面・検証可能な側面にどうしても目が向き、
それ以外は「科学ではない」と切り捨てる傾向がある。

しかし、我々が生きている現実は、現代の科学で認識する以上のことが、
常々起きている。
ただ、それを認識し、原因を解明できないでいるだけであることがいかに多いことか。

「エーテル体」とシュタイナーが呼称していた見えない身体は、
古代の中国では、経絡理論を体系化した大家などは、普通に見えていたのではないか、と思われる。

幼児は、繰り返しが重要である、という。
確かに、幼児は、本当に飽きもせず、何度も何度も、同じことを繰り返し、楽しみ続けることが出来たりする。
大人としては不思議でならない。
しかし、幼児にとっては、繰り返し、特に大好きなことの繰り返しは、見えない身体を育てる糧だ。

愛情が、まず何よりの見えない身体の糧だろう。

そして、その愛情を一身に受けながら、
身体で、試行錯誤をし、一つ一つのことを体得していくのは、何よりの糧であり、学びである。

その際に、より良き導きは、その育ちの自然なプロセスに沿った形で与えられるならば、非常に得がたいものだ。

何事も、先達のあらまほしきことなり。

身体で覚えること2。書くこと。見えない身体について。

「身体で覚える」ということを考えると、
やはり「書く」ということは欠かせないだろう。

漢字などは、書くことによって、やはり記憶が強化される。
むしろ、「手で覚える」という表現の方がしっくりくる。

「記憶」は「脳」に、現代では結びつけられるが、
身体の様々な部位に記憶が宿る、という方が、より体感的には正しい気がする。
実際、臓器移植をされた人物が、臓器の提供者の記憶を夢の中で追体験することなどがあることなど聞くと、
やはり、記憶は脳のみに偏在するのではないという裏付けになる。

では、手がない人はどうなのか。
手がなくても、イメージとして手で書く、という動きをトレースすると、
「見えない身体」が動き、それをとおして身体で覚える、ということにつながると思われる。

実際、手を動かせないとき、心の中で字をトレースすることなどはよくあることだ。

R.シュタイナーは、「エーテル体」という言葉で良く表現したが、
東洋では気の身体とでも言うべき見えない身体の動きは、
必ずしも物理的身体に縛られない面がある。
運動選手などが、イメージトレーニングやシャドートレーニングを良く行うのも、
このエーテル体とも、気の身体とも言えるような、見えない身体で反復強化を行っていると言えるだろう。

「反復強化」ということは、非常に重要な教育の要素だ。

これを単なる無味乾燥な反復に終わらせず、
生き生きとした喜びと共にある反復強化として、子どもも大人も大事にできれば、
非常に価値のあるものになる。

漢字の学習について「さかのぼり繰り返し」について書いたのが、関連なので内部リンクを貼っておく。

「身体で覚える」ということ1。音読について

日本語には「身体で覚える」という言葉がある。
日本語は身体関連の語彙が非常に豊富な言語で、
明治以来、日常の中からどんどん廃れつつあるようだが、まだ、身体に関する語彙は多い。
本来は、身体で覚えることが、得意な民族であったはずだ。
近年、その民族性は弱体化しているように見える。
教育において、やはり身体で覚える、という面が弱くなり、
頭脳面、知的面での学びが偏重されていることに対して、
身体で覚える、という面をもっと復興する必要がある。

読書をするなら、音読が、「身体で覚える」ということの適用になる。
ただ目で追う黙読より、音読。
口を動かすことが、身体に染みこませて良い。
(目で高速にインプットする速読は、また右脳の働きで別の話になろう)

近年、齋藤孝氏が「声に出して読みたい日本語」のシリーズを刊行し、
ベストセラーになり、
他にも七田式や様々なメソッドでも音読が実践され、
世間的にも再評価され始めている。

トロイ遺跡を発見したシュリーマンは、
各国語の聖書を、その国々の教会でブツブツと音読し、
10数カ国語を習得していったと聞く。

普通に読書をする際にも、専門書や論文などを読むときでも、
ただ目で追うよりも、口の中でだけでも音読する方が、
理解が早いことが得てしてある。
そして、覚えも良くなる。

音読は、身体で覚えることの大事な一歩だ。

2013年3月30日土曜日

漢字学習について4。「さかのぼり繰り返し」

漢字はやはり、「手で書いて覚える」ということが基礎になります。
が、そのやり方にも、ポイントがあります。

ひたすらに20回、50回と書いて覚えるよりも、
毎日一回ずつ、同じ漢字を繰り返し繰り返し書く方が、
人間の記憶に定着しやすい、ということが検証されていると知り、
実際、子どもたちとそれをやってみたところ、
やはり、そちらの方が覚えが良い、という体験を得ました。

その記憶法は、「さかのぼり繰り返し」と命名されていたと記憶しています。

物事を忘れる忘却曲線からして、
一日にたくさん書くよりも、
毎日反復することの方が
記憶の定着では効果がある、と。

スポ根的学習法よりも、脳の性質を理解した学習法の方が、良さそうです。

この記事の前に書いた3つの太郎次郎社の漢字学習シリーズについての言及は、
「理解」の基礎のお話でした。
そして、この記事は、
「定着」の基礎として、
やはり手で実際に書くことと、
それを毎日反復して少しずつ書くこと、ということの大事さのお話でした。

頭で理解しても、やはり手を動かしてみないことには,中々覚えない、ということがあります。
かつての日本の学び舎が「手習い所」と呼ばれていた所以も、このあたりにあるのでしょう。

漢字学習について3。漢字は十の形で形成される。

漢字学習について、さらに記事を書いてみる。

太郎次郎社の漢字学習シリーズで、学びになったことは、
「漢字は10の形で全てが形成されている」ということだ。

「十の画べえ」というものが販売されているが、
このもの自体を使うことは、私の子育てや、フリースクール時代、それ程多くなかったが、
ここから得たものは、非常に有益であった。

たとえば、漢字のかどっこの形を「かくかぎ」と呼称する。
縦棒や,横棒なら、普通にそのまま「よこぼう」とか「たてぼう」と呼べば良い。

しかし、一角曲がる形をなんと呼ぶかは知らなかったので、
形を伝えることに困難があった。
「角かぎ」と呼んで,伝えることが出来たので、
わが子や、フリースクールに通っていた子どもたちには、
「かくかぎ」と言えば伝わるようになったので,便利だった。

他にも、「乙」のかたちを「あひる」と呼称するとか(「飛」の字などにも使われる。)、
「礼」の右側を「つりばり」と呼称するとか(「札」などにも使われる)、
子どもたちとの共通認識を持つことに非常に役に立った。

また、「基本は10種類」というシンプルさを認識できたのもの、
安心感につながって、子どもたちにも、それを伝えることが出来たのは大きい。

太郎次郎社の「十の画べえ」は、
「漢字」という、ともすれば、非常に画数が多くて、
苦手意識をもつ子どもたちが出てきうる学習課題に関して、
とても良いツールの一つである、と感じた。

ちなみに、私は、今も、
娘と漢字についてやりとりする時、
「横、縦、角かぎ、縦、横、横、だよ」というような会話をすることがある。

しっかりとした共通言語をもつことは、コミュニケーションの大事な基礎だ。

漢字学習シリーズは、値段が張るので購入を最初はためらったが、
結局全て購入してみて、
その価値はあったと、今でも思う。

漢字学習について2。部首、形成文字。

前の記事で、漢字について所感を書いてみた。
さらに、今回は、部首について書いてみる。

太郎次郎社の「漢字カルタ」シリーズは、
基礎漢字101カルタに加えて、
部首カルタ、形成音カルタ、がある。

「漢字の面白さ」は、部首と形成音も重要ポイント。
基礎漢字は、象形文字が多い。
そして、その象形文字の基礎漢字が、
意味グループ・カテゴリとしての「部首」へ転じ、
また、
音グループの形声部へとも転じた。



これらの組み合わせで、
部首であれば、たとえば「のぎへん」は「稲」や「穫」「科」などのカテゴリが近いグループを形成し、

形声部であれば、「形」「刑」「型」などの「ケイ」の部分が、同じ音読みをもたらす、という同音グループを形成する。




 漢字を形成する要素として、
「基本漢字」
「部首」
「形声部」
の大きく三つの要素がある、
という認識を、
遊びの中で体感しつつ、基礎学習することは、
非常に理に適っている。

漢字というのは良く出来た文字群であると、子どもと学び直しながら、
感心しきりであった。

「テラスコーレ」という学びのあり方を、私が考える際、
「子どもを通して、大人が楽しくものごとを学び直す」ということが、
非常に重要である、と強調したい。

良い意味で「子どもをダシにする」ということと言える。
言葉は悪いが。

現代の日本では、子育て環境は非常に厳しいことが多い。
また、教育費が非常に高くつくことでも世界的に有名だ。
そんな日本の中で子育てをして行くにあたっては、
親として、いかにそこに喜びや楽しみを見いだすか、が非常に重要になる。

その際に、「子どもと共に、学ぶ喜び、暮らす楽しみを増やしていく」ということは、
重要なポイントであると思わずにはいられない。

子どもは、生きる喜びに満ちた存在である。
その命が、様々な苦しみに妨げられなければ。
時に、妨げられたとしても、それでも喜びを表して生きる。
その幼き命と共に、大人が、生きる喜びや学ぶ楽しみを刷新していくことは、
子と共に生きる特権であると思う。

漢字学習について1。語源・漢字カルタ。

故人となられた白川静氏は、漢字学の巨匠であり、その仕事はまさに偉業と言える。
漢字の語源を知ることは、非常に興味深い作業だ。
その語源学において,白川氏が日本で大きな基盤を形成して下さったことに感謝を覚える。

私が子育ての中で、漢字学習を子どもと行った際、
とても役に立ったツールに、太郎次郎社の「漢字カルタ」シリーズがある。
これは、白川氏の漢字学に学んだ研究者・教育者の方々が、
カルタの形にまとめたものだ。



基本漢字と、部首カルタ。そして、形成音カルタの三種類がある。

シュタイナー教育では、文字をイメージから体験する(「b」ならbearのクマの絵を描いて、そこからbの文字をつくる、といったような)、という手法をとるが、
日本では、漢字がそのためには一番ぴったりのものなのかもしれない。

ひらがなやカタカナよりも先に、漢字の基本文字の方が、
象形文字として入りやすいのかもしれない。

ひらがなで、私は子どもに教える際「い」なら「いるか」を2匹描いたり、といったことを行ってみていたが、
それがどこまで十分な効果があったのかは、定かではない。

絵を描きながら行うことで、一緒に楽しく学んだが、
元々の象形性の低い(漢字から形作られた)ひらがなを、
象形的に覚える、というのは、どこまで効果があるのか、
意味があるのかは、未だに正直、疑問が残る。
「イメージを大事にする」「感覚を大事にする」という価値は、理解できるところではあるが。

「そうでなければならない」というほどの強制力は、今のところ、自分では充分認識できない。特にひらがなに関しては。

逆に「音」を重視して、暗唱を重視することは、記号である文字を覚えるよりも先に、
もっと重視されて良いと思う。

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漢字に話を戻す。

漢字は、特に基本的な漢字は,象形的なものが多い。
しかし、例えば「白」は、骸骨がもともとであるという。
「道」なども、首を戦争でかりとり、道(しんにょう)を帰ってきた、という象形であるという。

そういった、本当は怖い語源を、子どもに適用するのかについて、また躊躇を覚えたものだ。
確か、漢字カルタでは、白は骸骨の形であった気がするが。
まあ、そのぐらいはありかもしれないが、
戦争で首をかって、それをぶらさげてきた、という意味合いで、
「道」の字を子どもに体感するようにしたい、とは思えない。

この辺は、本来の語源がどうであれ、アレンジが必要な部分であろう。

漢字の学習は、奥が深く、大人も楽しいものだ。

これから、このブログでは、漢字についてもいろいろ記事を書いていきたい。

「自分学」という核

「テラスコーレ」という学びのあり方を考える時、
「自分学」というものが、一つの核になると考える。

「汝自身を知れ」という格言が、ギリシャのアポロン神殿に掲げられているそうだが、
自らのパターンを知り、他者との関係性での傾向を知る、
ということなどは、生きていく上での,基本的な素養となる。

一方、シュタイナーなどは、
「己を知るには世界を知れ。世界を知るには己を知れ」という言葉を重要なものとしているが、
やはり、自らのみを知ろうとするのは無理がある。

世界・社会・他者との関わりの中での自分を知る,という意味で、
「自分学」ということは重要であろう。

そのためのツールとして、「日誌」「自己ジャーナル」が有効な手段となる。

書くことは、人間に与えられたありがたい機会。
充分活用したい。

また、自分を理解することと同時に、
他者を理解することの重要性がある。

特に家族がいる場合は、家族理解は,自分理解と同時に重要なものである。
自分学と同時に、他者理解の基盤として,「家族学」が必要であろうと思われる。
特に、自分が生まれた家族は、両親のみならず、祖父母の人生は,自分に非常に重要な影響を及ぼしていることが多い。
曾祖父母ぐらいまでは、かなり直接的・間接的影響を及ぼしていることが多いと伺える。

また、新しく他者とパートナーシップを持ち、子どもをもうけたのであれば、
パートナーや、子どもとの関係も、自分に大きな影響をもたらす。

更に、周りの人間関係も、様々に大きい。

それらのトータルさを含めた、実際的人間学としての自分学は、人生行路の中で重要な基盤となる。

「テラスコーレ」という言葉の出所

「テラスコーレ」という言葉を、かつて思いついた。
「おひさま地球子屋(てらこや)」というフリースクールを行っていて、
それを一度閉めたのが2007年頃だから、その頃であったと思う。

その時点では、検索エンジンで探してみても、
全く見つからなかったので、おそらく、日本でも、世界でもまだ無い、
自分のオリジナルだと思われる。

「テラスコーレ」の言葉の由来は、
「テラ」は「土」「大地」「地球」を表すラテン語の「terra」と、
「寺子屋」の響きの「てら」をかけあわせたもの。

そして、「スコーレ」は、
「school」の語源で「余暇」「暇」を表すギリシャ語。
古代のギリシャで、仕事との終わった後の余暇に、
広場(アゴラ)で集まり、話しあい、また議論し合う中で、
自然に学びが生じたことから「学校」の意味に転じた言葉とのこと。

「学校」は、現代の日本では、「忙しい」イメージだが、
西洋の語源では、逆に「暇」が元になっているというのは、面白い。

暇から始まる学び。
人との交流から生まれる学び。
生きることの中にある、学び。
生涯学習としての学び。

私は、「学び」「教育」というものが、
「こども」に向けられたもの、という狭さに違和感を覚えていた。
大人は決して完成した存在ではない。
人生も、社会も、常に改善が求められている。
その意味で、生きている限り、学びは続く。

子どもが通う学校は、「教育」の中で、一部ではあるが,全てではない。
矮小化された「教育」から、より言葉本来の意味での「教育」を体系立ててゆくため、
相応しい言葉がないかと10代の終わり頃から思い続け、
30代半ばで思いついたのが「テラスコーレ」だった。

ギリシャ語では、「education」の語源として、
「educare」という言葉がある。
これは、「爪で掻く」ということ。
「爪で掻き出す」ということが、「引き出す」という意味に転じ、
「能力を引き出す」という意味合いとしての「教育」=educationに転じていった。

educationは、本来、「教える」というよりも「引き出す」という意味が元である、ということも示唆深い。

日本では「教育」の「教」が,現代では強調されているように見える。
しかし、「育」の方向が重要であることは、疑いようがない。

educationの語源に似ているのは、「育」の方であると見える。

日本で始める教育の流れを、「テラスコーレ」という,カタカナ語で名付けるのは、
いささか不本意な気もしないではないが、
「寺子屋」の精神を中に秘め、
いつか世界にも広がっていくイメージを持って、
この数百年で優勢になった西洋系の言語の衣をまとった用語でいく、
というのは、まあ、順当でもあろうか、という気がしている。

「温故知新」の精神

「温故知新」というのは、非常に大事な言葉であり、精神であると思う。

「ルネサンス」という流れが数世紀前のヨーロッパで起きたとき、
そこに生まれた前進は、古典の復興を基盤とした前進だった。
ヨーロッパでの古典と言えば、ギリシャ・ローマ。

日本では、明治維新と太平洋戦争の二回で、大きな”文明”の激流がなだれこんできた。
また、遡れば、種子島に鉄砲が入った折、強烈なインパクトをもたらしたことを考えると、
西洋からの影響はその三回が大きいと私からは見える。
鎖国策を徳川幕府が施行したのは、正負の両面があると思うが、
ある面で、重要な選択であったようであると,今は思う。
小さい頃、学校で鎖国について学んだときは,その意味合いはよく分からなかったが。
日本に生まれ育ったものとしては、
今一度、ヨーロッパのルネサンスならぬ、
日本のルネサンスを志向するときではないかと、思われる。

西洋文明、特に火薬の開発や、蒸気機関の開発による拡大路線は、
今や,世界の隅々にまで広く影響を及ぼしている。

自然破壊も、苛烈に進んだ。
戦争の規模も、核兵器の開発に至って、狂気の沙汰を呈している。

「グローバル化」が全て悪いとも思えないが、
地方の小さな文化、弱い経済力の中に、
非常に重要な価値が多くあることが、
蹂躙され、
今や絶滅し、もしくは風前の灯火になっている。

「近代化」がもたらした利便性の陰で、
多くの文化、伝承などの火が消えようとしている。

今の時代が,それらの火を繋いでいく、ギリギリのラストチャンスであることが、
各地でみられる。

温故知新。
別に新しいものを全て捨てる、ということではない。
新しきを知りつつ、
故きを温める。

この精神は、これからますます重要になると思われる。

「テラスコーレ」という言葉で進めたいと思っている、
私の教育変革の流れでは、
「温故知新」が一つの重要な柱である。

「教育」は、「生きること」と共に

明治五年に「学制」が制定されてから、
日本では、近代学校教育が始まった。

それまでは、全国に民間の手習い所(寺子屋)が多数存在し、
官製的な学び場は、藩校(以外にどのぐらいあるのだろうか?)で少数。

手習い所では、農民の子どもは農事暦を学んだり、
商人の子どもは、実践的な算術やソロバンを習ったり、
という実学が重視されていた。

生活や,生きることに紐付いた学び、があったことは、
とても大事なことであると思う。

全て懐古主義でも問題だろうが、
教育について、もっと日本に元々あったスタイルを今一度見直すことは、
とても大事な示唆があると思われる。

日本で教育を変革していくための教育ルネサンスの鍵は、
江戸以前のあり方に一つの重要なポイントがあると思えてならない。

暦について、深めて参りたいと思っています。

暦は、非常に面白く、また奥が深いものです。

1970年代の日本に生まれ、季節感少なく育った自分としては、
大人になって季節感を取り戻し、
暦を体感し直してゆく、ということの必要性を強く感じてきました。

暦について少しずつ知り、その面白さ・奥深さにとても惹かれるものがあります。

これから、暦について、雑記も書き連ねて参ります。

「暦」で検索すると、良く出てくるのが,以下のページですが、
とても勉強になり、感謝です。
http://koyomi8.com/

二十四節気や、月の動きなど、少しずつ理解を深めたいと思っています。

また、プログラミングを通して、少しずつ暦のアプリなども作って、
日常に活かす一つのツールに出来たら、とも考えています。

徒然にブログを開始します。

「テラスコーレ」という造語を思いついてから、数年が経過し、
そろそろ、この言葉を使って、本格的に教育について考えを深め、
体系を少しずつ構築し、
ご縁のある方々と、学びについての活動を進めてゆこうか、と思い始めています。

私(石丸)は、
「ブログで適当に雑記を書き、サイトにまとめていく」というスタイルが、
自分に一番しっくりするパターンなので、
まずは、このブログを始めます。

徒然なるままに。